【ツインレイ】愛が何であるのかを知るとき – 千日回峰行と観音菩薩の慈愛

① 千日回峰行

この頃私は、登山出かけることが増えているのですが、
山を登りながら感じていることがあります。

それは、ツインレイの道が、
聖地に向かう山登りと同じだということ。

でも、皆さんもご存じのように、
ツインレイの山は、簡単に上がれる山ではありません。

しかも、ひと山越えても、また次なる山が現れます。

激しいアップダウンの山道を歩きながら、
一体どれだけの山を、越えなければならないのかと、
果てしなく思う日もあると思います。

例えるならツインレイの道は、連山を縦走する修験道の奥駈や、
千日回峰行のようなものかもしれません。

精神力、さらには知力や体力さえも、
持っている能力を限界いっぱい駆使しながら、

一歩一歩と頂点を目指して自己を極めていきます。


② 悟りの境地

吉野山にある金峯山寺で、大峯千日回峰行を満行されて、
阿闍梨となられた方のお話の中で、深く残っている言葉があります。

それは、生死を分けるような体験をすると人生観が変わり、
人生の全てが、感謝であることに気付いたというお話です。

この言葉は、ツインレイの道にも言えると私は感じています。

欲しくても得られない愛を求めて、日々を限界まで生きて、
それを千日、更には何千日と続けていると、

己の中の欲が、次第に削ぎ落とされて、
何も求めない、無の境地へと向かっていきます。

そして、無の境地の上に無条件の愛が生まれて、
人生の全てが、愛であることに気付くのです。

極限まで追い込まれることで見えてくる世界は、
辿り着いた者でしか見ることの出来ない、悟りの境地。

そこに辿り着いてこそ初めて、私たちは愛が何であるのかを、
学び得られるのではないでしょうか。


③ 慈愛

ツインレイの道を長く歩んできた人なら、
きっとわかると思います。

出逢いの頃や、その後数年の愛の感覚と、
現在の愛の感覚が、別次元であることに。

それは、通常の恋愛や結婚では知り得ることの出来ない、
ただそこに溢れるような愛。

まるで、観音菩薩が放つ愛のように、
それは愛というよりも、慈愛という言葉が適切かもしれません。

慈しむような愛が溢れて止まなくなったとき、
私たちは愛が何であるのかを、実感として理解します。

それは慈悲ひとつも無い、
神も仏も無いような道を歩むことで、

自らが光と成って、
慈愛を放つ存在へと昇華するからだと思います。


④ 観音菩薩

ツインレイの統合は、統合したいという欲求さえも、
手放した先にあると言われています。

そんなはずは無いとか、
それは無理だと言われるかもしれませんが、

そのことは、統合前の段階でも理解できるはずです。

何故なら、逢いたいと願う時には逢えなくて、
逢いたい欲求を手放した時に、逢えるものであるからです。

そう考えると、統合を目的として歩むよりも、
魂の覚醒や、愛の悟りを目的として歩むことの方が、
理にかなっているかもしれませんが、

実際、統合している人たちは、
すべてを完全に諦めて、自分を強く生きている時に、
思いがけない統合を迎えているケースが殆どだと思います。

そして、全てを手放した先の統合には、
無条件の愛しかないため、

二人が共にあっても、そこには制限や制約はありません。

観音菩薩が二体、
共にあることをイメージするとわかると思います。

そこはただ、宇宙でしか無いのです。

宇宙は愛そのもの。

二人の間には、完全なる調和した愛と、
調和した現実しか訪れないのです。


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